2014年04月

4月もあと残すところ2日、間もなく5月です。新緑から力強く濃く成長した緑が日本を南から覆うでしょう。美白の国出身、生粋の森の民の自分はそんな祖国の風景を思い浮かべ、すでに午前中から25度を越す現在住地の気候にゲンナリしています。ひとたび夏が始まればそれは日本でいう晩秋の季節まで続くため、私にとってこの国での夏の始まりは恐怖でしかありません。


昨日はホロコースト記念日。この日この時間だけは、イスラエル国民はどんなことをしていても手を休め黙祷を捧げます。このように走行中の車も停車します。毎年のことながらその哀悼の光景は胸に迫るものがあると感じながら、共に気持ちよい風と強すぎない朝日の中で目を閉じました。普段何につけてリスペクトのない国民性と言わざるをえないイスラエル人ですが、この時だけはいつもとは違う思いを感じます。




去年は春みたいな気候が結構長く続いたんだよな、と思い出し、次いでそんな気持ちよい初夏のイスラエルの風に送られ、去年の今頃若くしてこの世を去った日本人女性のことを思い浮かべました。

「大和屋の文さん」こと今谷文さんが脳梗塞でその46年の短すぎる生涯を閉じたのが昨年5月。10代の若きより海外で和食を作り渡り歩き、最愛の旦那様と出会いその永住の地と定めたイスラエルで和食文化のパイオニアとして活躍されました。

邦人の新年会といえば採算度外視でごちそうを振るまい、日本人の集まるピクニックがあれば本人は登場せずとも必ず立派な折り詰めが届く。誰にでも別け隔てなく、私ごとき新顔にも心を尽くしてくれた文さん。亡くなられた時は略式ではありましたが日本人会有志による会葬が行われ、国籍問わず、文さんの人柄を慕い彼女を惜しみ集まった人の数たるや、彼女がどんなに愛されていたか想像に難くないものでした。

「いま、イスラエルの大和屋っていう和食レストランの文さんって人がテレビに出てたよ~」と日本の友人からメールをもらったことがありますので、もしかしてテレビで見た記憶があるよ、という方もいらっしゃるかもしれません。和食の食材など手に入りづらいこの国で、彼女の和食に慰められた思い出を持つひとは多いと思います。


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文さんが脳梗塞で倒れて、お医者さんが会いたいひとがいたら会わせてやれと言っているらしいんだ。


この国に住む日本人の友だちからそう、文さんの容態について説明する電話が来ました。

何を言ってるんだ?だって、ほんの2週間前に日本人女性で持ち寄りパーティをしたとき、文さんおっきな折り詰め作って持ってきてくれて、一緒にお酒飲んだんだ。数日前だって、テルアビブで鮮魚が買える店を教えて欲しいとメッセージ送ったら丁寧に返事をくれた。魚を選ぶ目に自信がなければ、魚の写真を撮って送ってくれれば鮮度を確かめてあげるから、と。

やっと自分のレストランの開店費用をほとんど返し終わることができた。これからはだいぶ時間的にも余裕ができるからこうして集まりにも積極的に参加したいと言っていて、彼女は大変忙しい人でも有名だったけれど、これからはもっと会える機会があるんだと嬉しく思った矢先のことでした。持って来てくれた折り詰めは、自家製さつま揚げと寿司がどっさりと詰められいてとても綺麗で美味しかった。


到底信じられませんでしたがすぐにボニョさんに連絡をし、文さんが治療を受けている病院に向かいました。治療室に入ると沢山の友だちに囲まれ、ベッドの上でまるで子どもの様な寝顔で目を閉じ横たわる文さんがいました。その顔色を見ても気持ちよく寝ているようにしか見えず、これが意識は戻らないだろうという人か、という程穏やかな表情をしていました。隣で泣き崩れる旦那さんがいなければまるで現実味のない光景でした。

腕をさすり、文さん、疲れてたんだよね、わかるよ、休んでもいいと思う。でも、そろそろ起きないとみんな心配してるよ。と話しかけて帰ってきました。その3日後、文さんは永眠されました。


亡くなった時は彼女を知る誰もが大きな悲しみに包まれ、イスラエルのニュースサイトでその訃報が取り上げられるほどでした(Web記事はここをクリックすると別ウィンドウで開きます)。


最後に文さんと会った夜は日本人女性だけの気安さからか、それぞれパートナーとの出会いについて話していました。イスラエル人と恋愛をしてイスラエルに住んでいる日本人女性には共通点がある、イスラエル人男性の情熱に、大事なのは愛されることだと覚悟を決め海を渡ったという点だ、私たち、イスラエルに住む日本人女性は愛をとったからここにいるんだよね。と私が話すと、隣に座った友だちは「うん、うん、ほんとそうだよね!」と同意してくれましたが、文さんには豪快に「クサい!クサ過ぎるよっ!」と笑いながら突っ込まれました。でも、彼女の目はそうだね、私も同じだよと語っていたのです。


私たちが文さんを失ってからまもなく1年になります。私が持つ彼女との思い出は多くはありませんが、これからもこの季節がくるたびに彼女のことを思い出さないことはないでしょう。追悼、文さん。もう一度あなたに会いたいと願わずにはいられません。



先日終わったパスオーバー、祝日最終日はもちろんイスラエルの国民的スポーツ(?!)BBQで〆。ボニョさんは末っ子のため、炭起こし&焼き係りでございます。



義実家の立派過ぎる庭木!日光だけはタダですイスラエル。





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久々の更新です。長くなります。

当地は 過ぎ越しの祭(クリックで別ウィンドウが開きます)真っ最中です。

毎年のことですが、生地を発酵させて作ったパンを食べてはいけないだけなのに、なぜ国中大混乱になるの?パンをマッツァー(発酵させないパン、クリックでウィンドウが開きます)に置き換えるだけぢゃん。と信心のかけらもない私は思うのですが、普通に考えたら過越祭を迎えるには小麦製品を自宅に置かないための掃除(当然うちはしない)、初日夜のディナーのための用意(実家で用意するので必要なし)、期間中はみんなヒマなので突然誰かが訪問してくる時のための用意などで忙しいのでしょう。更に仕事も休みの人、休みじゃない人も入り交じり、パンやピザ屋などは営業できないので外食できる場所も限られてくるためどこも混雑するんでしょうね。

そういえば最近は、発酵させたパンがいけないなら、とイスラエル人も知恵を絞り、祭りの間はじゃがいもから作ったパンを提供する店も増えています。一度食べたことがありましたが、悪くありませんでした。私が食べたのは、テルアビブのCityという黄色い看板のチェーン店。チキンサラダが美味しいカフェです。

じゃあそんなにヒマだというならどっか出かければいいじゃないと思われるでしょうが、まだまだユダヤカレンダーが脳内にインプットされていない私(太陽太陰暦に基づいているため日時が毎年変わるのも大きい)と、カレンダーや時間という概念に非常に乏しい旦那。そもそも過越祭がくることに気づいたのが、旦那の会社からの休日の案内を貰ったとき。旦那の会社は毎年、過越祭期間中は全休となりますがお知らせのタイミング、休暇の始まる2週間前。


もっと早く教えてよ!!!


日本なら、年度初頭に年休カレンダーって発表されますよね。何でも直前、急がお好きなお国柄なのは諦めるしかなく、そろそろ祝日カレンダーだけでも把握しないとなあ、と思うのですが。。自分も昨年末転職し、ある程度休みなど自由に取れるポジションとなったため今年は夫婦揃って全休取得可能。・・・はっ。


そうだ、オランダ、行こう。


思えば結婚以来旅行の行き先は日本ばかり、そもそも出不精で長距離ドライブも好きじゃない旦那は「休みの混んでる時になにしに出かけるんだよ」と休日の遠出も好みません。しかしオランダだけは別。提案してみたら目をキラキラさせて「そうだ!ファック・マッツァーブレッド!ちょっとチケット高くてもいいから行こう!」とノリノリ。

しかしそのとき私は思い出したのです、この正月日本を訪れたときのことを・・・「いやラッキーだったよ。俺のパスポート今年の7月が期限だから、出国できるのあと1ヶ月くらいだったわ」ご存知の通り、パスポートは残りの期間が6ヶ月を切ると海外に出ることができません。今は4月、ということは・・・

ハイ、期限切れ。

一縷の望みを託し、内務省のホームページを確認するも「発行には10営業日が必要」。しかし友だちに聞いてみたところ、多くが「3、4日で届いたよ」とのこと。受け取りは書留で届けられるそうでギリギリ、休暇の後半旅行できる余地あり!とダメ元でその日のうちに更新申し込みをしました。

次の日、旦那の友だちにその話をしたところ「え、もう申し込みしちゃったの?私の友だち内務省で働いてるから、彼女に頼めばその場で再発行できるのに」なにー。しかし時すでに遅し、あとは運を天に任せ祈るのみです。

そして、申し込みから4営業日目、休暇の始まる前日。ネットで書留の番号を検索していた旦那が「ちょ、今日配達されたけど受取人が不在のため持ちかえったって!」早速郵便局に連絡をすると「ポストに名前書いてなかったので持ちかえったよ。本人の所在確認がとれないものは配達できないんだ」取りにいくというと、書留は郵便局で受け取ることができないそうで、結局再配達は休暇後との返事。ああ、なんて運が悪いんでしょう、私たち。

ワクワクでフライトなど検索していましたが全て無駄・・・と落ち込みましたが、これからホリデーラッシュ。来月は?と調べてみると、1日休めば5連休が取れる!ということで、めでたく来月オランダ旅行することと相成りました。あまり急に決めるよりはかえって良かったかもしれないね。とやっとパスポート騒動も収束。


教訓。万が一に備えてパスポートは更新しとくべし。


ところで旦那はカレンダーや時間の概念が非常に乏しいと書きましたがどの程度かと申しますと、結婚式や集まりごとなどを当日の直前に(私が)思い出して駆け込みセーフなんてことは珍しくもないし、普段自分がこれをこなすのにどのくらい時間がかかるかといったデータは全く蓄積されておりません。いったい彼の脳内カレンダーはどのくらいズレているのか?先日お使いを頼んだ時のこと。

彼のオフィスがテルアビブのカルメルマーケット(青空マーケット。豚や海鮮などの非ユダヤ的食材やアジア食材なども豊富)のそばに引っ越したため、マーケット内のアジア食材店でトンカツソースを買ってきてくれと頼みました。最後に自分自身が訪れたときに賞味期限切れのものしか置いていなかったためその旨念を押し、必ず賞味期限を確かめるように伝えて。

で、夜になって「買ってきたよ〜」とご機嫌の彼から渡されたのは、やっぱり期限切れ。最後に私がみたものと同じ、2014年1月25日が賞味期限のもの。頭に来て「だからさあ、日付確かめてっていったじゃん」と言うと「きみこそなんだっていうんだ、確かめたよ!ホラ、来年1月までの期限じゃないか!」とキレながら堂々の主張。


Ho No! 彼の脳内カレンダーは周回遅れだったよ!!



さて前述の通り正月も日本に行きました。普通なら日本での正月休み!ヤッホー!とブログを更新していたかも知れません。しかしこのブログに最後の投稿をした去年の8月の末、それもまさに自分の誕生日の夜。友だちがテルアビブ南部の歴史ある街ジャッファの海鮮レストランを予約してくれて、誕生日だということで沢山サービスをしてもらい、その後はビーチ沿いにあるクラブでみんなで踊って、深夜帰宅。楽しかったね、と話しながらメールをチェックしたところ、かねてより体調が悪かった父が末期ガンであるという検査結果が出たとのメールが母から届いていました。

酔いもさめ、同時に目の前が真っ暗になりました。それから、12月半ばに急逝するまで3ヶ月半。あれよあれよといううちに、父はあっけなく逝ってしまいました。海外在住者の宿命とはいえ、最も起きて欲しくないことが現実になった。訃報を受け取り泣き崩れる旦那を慰めながら、にわかには涙も出ずただ呆然と立ち尽くしていました。あと10日ほどで帰省、共に正月を過ごす予定だったのに。

彼は昭和の遺物としかいいようのないような男で、自分が理解し信じることにしか従わない、自信にあふれたとても頭のいいアウトローでした。40年以上のジャーナリスト人生、正志という名が表す通りペンの力で正義を伝える志を貫きました。仕事柄演説をする機会も多かったですがその天分にも恵まれたひとでした。

四角四面の報道人としてだけではなく、デビュー前の若い頃より歌手・友川カズキさんを後押しし続け、彼のアルバムのライナーノーツ、フライヤーの惹句を寄稿するなど多彩なジャンルでの執筆活動にも才能を発揮しました。

また将棋をこよなく愛し、アマチュアレベルではなかなか対局相手が見つからない腕前の棋士でもありました。常日頃、父は小さな一地方都市ではその能力を活かしきれないのではないかと思っていましたが、死ぬまで地元にこだわり続けたひとでもありました。

そんな彼は、弱気になった自分の姿を娘たちに見せたくなかったように思います。帰国まであと10日足らず、待っててくれても良かったじゃないかとも思いましたが、私の帰国前に決めて逝ったのだろうな。そういう男でした。

自分が結婚するまで、父はずっと私のことを陰日向に守ってくれる強い存在でした。三姉妹の長女ながら一番の心配のタネの私に、自分の代わりとなる存在が見つかったことで安心して逝ったと思います。一昨年末初めてボニョさんを両親に引きあわせた時の、嬉しそうな父の笑顔を思い出します。怪しいながらも英語を駆使し、一生懸命ボニョさんとコミュニケーションし愛情を示してくれたことに感謝が尽きません。

そして自分は父の影響で幼い頃よりいつかモノカキになるのだと自然な形で考えていました。彼のように何かを成し遂げるには至っていませんが、自分のライフワークは書き続けることだと自覚しています。自分の人生の大きな指標は父が指し示してくれたのです。

父の死については全く整理がつかず、思い出しては泣き、時折ぼそっと話しかけたりしています。誰しも自分の親だけは死なないのだと思っていると思います。しかしこうして人は突然いなくなることがあるんだとまた心に刻み、益々家族と仲間を大切にして生きていきたいと思います。会社の厚意で、1ヶ月帰省をして家族と心通わせ慰め合ったのもとてもいい経験でした。肉親の死といえども日本で1ヶ月の休暇取得は不可能だと思います。快く送り出してくれ、花束まで送ってくれた会社の対応にも大感謝でした。


そういえば今月頭のこと。私はおろか、母の夢にすら父は出てこなかったというのに、イスラエル在住の友人(且つ同僚、父とは面識なし)の夢に父が出てきたのだというのでビックリ!

父は彼女の日本の実家に私と連れだって現れ、彼女の家族全員の生い立ちについて詳しくインタビューしたそうです。父は自分のことは話さず、うまく彼女の家族が話せるように促しつつ友人家族の話を聞き、私は父の隣でにこにこ座っていて、あまり話すのが得意でない彼女の家族も饒舌に語り、彼女曰く「とっても楽しかった」そうです。

父が住まいを彼岸に移して3ヶ月ちょっと、未だ自分の夢には出てこないし枕元に来た様子もない。実家の仏壇の辺りにいる気もしなかったし、ハテ一体どこでなにをしているものやらと思っていたらさすがジャーナリスト、会ったこともない人の夢で取材とは!父は仕事人間でした。仕事というより心からジャーナリズムが好きだったのだと思います。

あまりに面白い話で嬉しくなり母に伝えたところ、実は今朝初めて母の夢にも父があらわれたんだそうです。実家の、ピアノがおいてある部屋で妹2人と共に、微笑んでいたそうです。

そしてそんな話を聞いた翌日の朝、ほんの少しですが父が夢にあらわれました。私が生まれ育った家で、玄関からピシッとスーツで出かけるところで、いってらっしゃいといいながら後姿をみたらスーツのうしろがボロボロだったので、でも疲れたらすぐ帰って来てね、と肩を抱いたらウン、と返事して出かけていきました。お父さん、やっぱ仕事行くんだね。


次は、誰の夢に突撃取材しにいくんだろう?不思議な、でも幸せな気分になったお話です。


イスラエルは花咲き誇る春となりました。







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